てるってどんな人?コンビニ行くノリでマレーシア転職した人のプロフィール

初めまして、コンビニ行くノリで海外転職を決めたてるです。

この記事に興味を持っていただきありがとうございます。

田舎の貧乏家庭で育った僕でしたが、気づいたら今はマレーシアで海外生活をしています。

お金がなくても学歴がなくても、行動次第で人生を選択して可能性を広げていくことができます。

僕がTwitterやブログで多様な生き方、考え方に出会って「こんな生き方していいんだ」って思えたのと同じように、この記事が誰かの気づきになれたり背中を少しでも押せたらいいなと思います。

幼少期(0歳〜) 

〜貧乏家庭の4人目の子供として産まれる〜

今から振り返ると、家庭環境は良いものではなかった気がします。

両親の仲が悪く、父親の帰宅後に両親はほとんど喋らず家の中は非常に重たい雰囲気でした。

整理整頓されている家ではなく、居間にあった8人ほどが座れるテーブルの上に物が置けないほど常に散らかっており清潔感はなかったです。それ以外の場所もそのくらい散らかっていた記憶があります。

お金がなく、電気や電話が時々止まったりもしていました。

「この場所には絶対戻りたくない」と思う場所です。

一時的に他の家に住んだりもしたのですが、上京する21歳まではほぼこの家で過ごすことになります。

小学生(6〜12歳) 

成績は中の上で目立たない生徒でした。

友達はいたりいなかったり。いじめを受けていた時期もありました。

付けられていたあだ名は「オヤジ」。おやじっぽいからという理由ですw

いやぁ、懐かしい。笑

仲間外れにされたり「オヤジ」って言われるくらいだったので、ひどいいじめではなかったです。

当時を振り返ると、家の居心地がすごく悪かったので家に帰りたくなくて常に気疲れしていたような気がします。

だから顔も疲れていてオヤジ顔になっていたのかなと、今になって思います笑

中学生(13〜15歳) 

〜学年で底辺の成績&親が離婚し生活が不安定になる〜

中学校に入ってからは全然勉強できませんでした。

常にストレスが溜まっていて、集中力がなかったです。

部活も入ってはいたものの、幽霊部員で2週間に1回部活行く程度。

何にやる気を見出せることもなく、時間が過ぎていきました。

14歳のとある日母親から「離婚した。引越しをするから荷物をまとめて欲しい。」

と言われ、3人の姉と僕は歓喜。笑

居心地の悪い家を抜け出せるんだ!という高揚感で幸せMAX。

母親や姉たちのストレスがなくなり、雰囲気が明るくなり最高でした。

しかし、姉3人は体調が悪く全員働けなかっので一気に生活が困窮してしまい、一番上の姉と僕は一年弱で父親の家に戻ることにしました。

父親は自営業をやっており、僕が中学生になる頃には地元では比較的高収入だったため、生活が一気に安定すると同時に僕のメンタルも安定し始め将来のことを考えられる余裕が出てきました。

「このままの成績だったら将来ヤバいかも。貧乏になりたくない。」

と感じ、受験前の3ヶ月間は毎日勉強に明け暮れました。

結果、頭が良い学校ではないものの

県立学校で、地元では評判のいい商業高校に合格することができました。

合格後知ったのですが、家族全員、落ちると思っていたみたいです。笑

高校生(16〜18歳) 

〜奮起し3年間学年トップの成績を収める〜

高校に合格し、なんとか将来への切符を掴んだ気になった僕は、中学までの僕とは別人なくらい勉強に部活に打ち込みました。

特に勉強に関して言えば、在学中3年間、常に学年トップの成績を維持し続けることができました。

これは今となっても僕の人生のプチ自慢です。

(ただ、頭のいい学校ではないことをもう一度補足しておきます。笑)

時は過ぎ、高校卒業後の進路として、大学か就職の選択に迫られる時が来ました。

父親はお金には困窮していなかったものの、すごく余裕がある訳ではないことに加え「大学はお金の無駄」「遊ぶだけで何の役にも立たない」と言っていたため、そういうものなのかなと思い大学進学の選択肢を考えることなく就職の道を選択しました。

選んだ就職先は、地元で「医療機器の営業職」でした。

選んだ理由としては「医療=安定していそう」「営業職を通して人と多く関わって成長したい」というものでした。

営業(18〜21歳) 

〜なんとなく3年間経過して、「やりたい事」を考える〜

仕事で僕が携わっていたのは整形外科の分野で大きく分けて三つをメインでやっていました。

・高齢となり膝や股関節が痛くなってしまった方を人工関節にするため、インプラントや器械の準備

・骨折を治すためのプレートやスクリュー・器械の準備

・上記二つを進めるため、先生やオペ室の看護師の方とのミーティング

しかし、上記は全て先輩の営業補佐として後ろにくっついていくだけ。全く仕事を任せてもらえずに3年経過していました。

今になって思うと、未成年で考え方も甘過ぎた僕に任せなかったのは賢明な判断だったなぁとしみじみ思います。笑

入社後3年経って21歳目前で、ふと気づきました。

「なんで好きなことをやっていないんだろう」

そう思って、前々から興味があって携わりたかったファッションの道に進むことにしました。専門学校に進むため、年末に退職届を提出し3月末で退職しました。

専門学生(21歳〜23歳) 

〜アパレル×ホスト×メイド喫茶のキッチンで生計を立てるも夢から覚める〜

めでたく!ファッション学生として東京の生活!!

とキラキラのイメージで上京してきました。

学生生活は本当に楽しかったです。

講師の授業を受け、クラスメイトと一緒に課題をやったり作品のアドバイスをしあったり。

バイトを探していたところ、先輩がメイド喫茶で「妖精さん」をやっているということで、働かせていただけることになりました。笑

場所はなんと、秋葉原!

一つでは生活がきつかったので二つを掛け持つことにしました。

二つ目は、大好きだったラフォーレ原宿の大好きだったブランド(もうなくなってしまいました涙)で働き始めました。

ルンルンで気分で渋谷を闊歩していると金髪の声ガラガラのお兄さんから「バーの求人ががある」と言われました。

見た目で人を判断し(笑)察しましたが、知らない世界に興味津々だった僕は「別日に話を聞かせてください」と言い後日指定された場所にいきました。

そこは、まごうことなき歌舞伎町のホストクラブでした。笑

「絶対向いてる」と言われ、「やってみないと分からないよな」と思いやってみたのですが妖精さんとショップ店員とホストと学校で時間がなさすぎたため、本業に専念しようと思い妖精さんとホストを辞めました。

ショップ店員のバイトだけだと生活ができなかったので、深夜に働ける仕事も探して牛丼屋の松屋でも働きました。

満足に寝られない状態で頭カクカクなりつつ授業を受けた日もたくさんありました。

でもやりたいことができている幸せが強かったので、精一杯取り組みました。

そして、あっという間に進路を考える時期が到来しました。

気持ちは常にデザイナーだったのですが、学校に届いた求人を見て愕然。届いている求人にデザイナー職はほぼない&あっても手取り10万円代前半。

卒業して奨学金の返済もあったのでちゃんと生きていけない金額でした。笑

そして、完全に夢から醒めた瞬間でもありました。

専門学校に来る求人を見て、ファッション業界の厳しさを知り、かつ将来性の部分も考えファッション業界はいったん諦めました。

「これから絶対に伸びるIT業界にしよう。かっこいいし!」←

そんな思いで、未経験から異業界に挑戦できる派遣会社に登録しました。

派遣(24〜27歳) 

〜派遣×ガテン系バイトでまともに寝れない3年間〜

派遣会社に登録して、コールセンターの仕事やHP制作会社のコールセンターの仕事に就きました。

普通に考えれば派遣で1200円〜時給をもらえれば生活できるはずなのですが、当時の僕はお金がありませんでした。

理由は、卒業→派遣の間に半年間ほど居酒屋のバイトを二つ掛け持ちしていたことが原因です。

二つ掛け持ちしてなんでお金ないの?ってなると思うのですが

居酒屋ってその日のお客さんが少ないと、「帰って良いよ」って言われることが多いんです。気持ち的には嬉しいけど、金銭的には激痛でした。

結局そんなことが続いて、月のバイト代が二つ合わせて6万円だったこともありました。

家賃5万円、スマホ1万円払ったら終わり。(震

食事や電車賃、水道光熱費とか全くないんですww

カードで一時的に回避できたものの、数ヶ月してその生活は無理だと理解し派遣にたどり着いたものの返済額が多かったのでお金がなかった、という流れです。

昼は派遣でオフィスワークを行い、夜はビルの解体やドンキホーテのレジをやって少しずつ返済して行きました。

1週間のうち、4日間寝ない生活を3年間続けました。

寝ないというのはこんなイメージです。(月曜日夜が寝られないです)

月曜日昼派遣 → 月曜日夜バイト →火曜日昼派遣 → 火曜日夜爆睡

本当に、あの頃は記憶がないくらいに必死でした(というか寝てないから意識が朦朧としていたのかもしれません笑)

深夜のバイトを辞められたのは、派遣で働き始めて3年くらい経過した頃でした。広告代理店のクリエイティブディレクターの派遣が決まったあたりです。

そこから仕事に全力を注ぎ、1年経過したあたりでグループ会社のクリエイティブディレクターの正社員として働き始めることになります。

正社員(27〜28歳) 

〜立ちはだかる大きな壁に撃沈し休職〜

派遣から正社員としてのキャリアを積んで、順調だったつもりでした。

効果を伸ばし、実績を積み上げ、ベストクリエイティブ賞を受賞したり、当時のディレクターで唯一のKPI,110%達成したこともありました。

ある日、とある案件を任されました。

今までと同じ感覚で取り組もうと思ったのですが、何やら周りの人の温度感が明らかに今までと違います。

僕はその時気づいていませんでした。

任された仕事が、今までと比べ物にならないくらいレベルが高く、かつ僕がやったことない仕事だったことに。

巨額の予算の案件が動き、走り出した時に圧倒的なプレッシャーと力不足を感じ、自分の中で、なにかがポキッと折れてしまった感覚がありました。

走れなくなってしまった僕は、すぐに休職の手続きを取り逃げるように休みに入りました。

休職(28歳)

〜絶望の中でみつけた一筋の光〜

休職してから2ヶ月くらいは、本当に何もしたくなくてベッドから動けませんでした。

ご飯のことも考えたくなかったので納豆だけとか、豆腐だけ食べて昼夜問わずお酒を飲む生活が続きました。

自分には何の能力も価値もないと自己嫌悪に陥り、死にたいと感じた期間もありました。

その期間は本当にしんどかったのですが、2ヶ月を超えたあたりからだんだんと元気が戻ってきて、シェアハウス のメンバーと話したり料理を自分で作ったりもできるようになりました。

とある日、同僚からLINEで「こんなのあるよ」とURLが送られてきました。

見ると、ボンビーガールのマレーシア特集でした。

海外生活に憧れはあったものの、海外生活のイメージは

「英語ペラペラ&お金持ってないといけない=別世界」

だったんです。

でもその特集で紹介されていたのは

「英語スキルなし&貯金なし&経験なしでプールジム付きの海外生活を満喫中」

という僕のイメージとかけ離れたものでした。

見始めてすぐに「これは行きたい」と思いました。

自分の中での絶望を味わって、先が見えなかったからこそ全く想像しない世界に踏み出す勇気が持てました。

番組を見た後の僕の行動はこちらです。

本当にこれだけです。笑

より詳細を説明すると、1と2の間に「日本語履歴書を英語に翻訳して提出」が入っているのと、貯金0ではなく「初期費用として20万円」程必要でした。(余裕を持って30万円ほどあると、より安心です)

こんな流れで、びっくりするほど簡単に海外転職への切符を手にしました。

まとめ

〜もっとカジュアルに動いていい〜

憧れていた海外生活って、こんなにハードル低かったんだ、ってびっくりしました。

こちらへきて1年半ほど生活していますが、新しい環境で発見したことや成長した部分はたくさんありますが、失ったものはありません。

あ、一つありました。のんびりした性格になってきたので、早口を失いました。笑

僕の今までの生活が慌ただしかった反動もあると思うのですが、マレーシアでの生活は最高です。同調圧力はありませんし、みんな自分のペースでOK。日本だと、なかなかこうはならないなと来て感じました。

僕はコンビニ行くノリで来ちゃいましたが(笑)全員がそうではないですし、各々の事情もあると思います。なので、マレーシア生活で不安に思う点や疑問、質問があればお答えさせていただくのでお気軽にご連絡ください。

そう、コンビニ行くノリで。笑

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